創立記念日に向けて

11月22日はトキワ松学園の創立記念日です。そこで、皆さんにトキワ松学園の歩みについて、お話ししたいと思います。

100年前の日本は、女性がまだ社会的に教育を受けることが難しかった時代でした。創立者の三角錫子先生は学びたい女子に教育を受ける機会を設けようと、1916年渋谷の常磐松町に常磐松女学校を作りました。そして、三角先生は「鋼鉄に一輪のすみれの花を添えて」というという言葉を残され、その言葉の意味する「強い意志と他者への優しさを兼ね備えた女性を育てる」ことを建学の精神としてきました。三角先生は、多くの教えを残していらっしゃいますが、学園の創立後、わずか5年でその生涯を閉じられています。その後、多くの先生方がトキワ松学園を支え、発展させてこられましたが、その中でも特に室谷早先生、丸山丈作先生の功績は大きいものでした。そこで、今回はお二人の先生の功績・教えについてお話し致します。

 

【室谷早先生】

トキワ松学園は4つの校舎を経て現在の碑文谷校舎に至っています。創立時は「女子音楽学園」の校舎を借りてスタートしましたが、空襲により全焼してしまい、渋谷の「常磐松小学校」に同居させてもらいました。その後、世田谷区上町にある和光学園でそこに在校する小学生と共に学ぶことになりました。しかし、合併の話が持ち上がり、トキワ松の名前を守ろうとそこも離れ、渋谷の國學院大學に教室を借りました。そして、先生・生徒の様々な苦労の上に、ついに碑文谷の地に校舎を建てることができたのです。そこで、創立記念日は、この碑文谷に校舎の建築許可の下りた日、11月22日としました。

この放浪の旅の中でも特に和光学園から碑文谷に移るまでの間が大変な時代で、トキワ松存続の危機を乗り越えるのに奔走されたのが、室谷早先生でした。木造平屋でスタートした碑文谷校舎ですが、先生は戦争の記憶から「鉄筋コンクリートの燃えない校舎」をという強い思いを持たれており、その後鉄筋コンクリートの新校舎を建築、さらに新館・体育館・プールの建設と学園の基礎を作られました。女子美術大学の前身、女子美術専門学校を出られている先生は、造形美術の短大設置に動かれましたが、トキワ松学園女子短期大学(現 横浜美術大学)の開学を見る前に残念ながら亡くなられました。

先生の学園に対する功績は、現在のトキワ松学園の発展に関わる大変大きなものでした。

 

【丸山丈作先生】

「モロモロノ恵ミニムクイルタメ、常ニ善イ事ヲ行ナウ。カラダヲツヨクスル、カシコクナル。ヨクハタラク。ムダヲシナイ。」教育目標として生徒手帳の最初書かれています。これは、丸山先生の信条として、今も生かされている教えです。丸山先生は府立第六高女(現:都立三田高校)の初代校長として、女子教育界に新風を吹き込みました。同校退職後、5年間常磐松の教頭として在職され、戦争中に一旦は退職されるも、戦後の新生常磐松が第一歩を踏み出す時、請われて第6代校長に就任され、その後すぐ理事長も兼務されました。先生は、「女子は次代の人間を育てる大切な立場にあるのだから、より良い教育を受けなければならないという考え方を持ち、健康教育を重視しました。トキワ松でも「スキー教室」「臨海学校」「徒歩遠足」「北アルプスや富士山の登山」などを実施いたしました。また、合理精神に徹して個性的な教育を目標とし、制服も寒暖に応じて自由に組み合わせて着用できるものを先取りしました。同様にカナ文字論者の先生は、筆記のスピードや簡便さを重視して、漢字の「常磐松」から、カタカナを使った「トキワ松」に改めました。また先生は、世界中が同一語で語り合えることを理想に掲げていらっしゃいました。それぞれ異なった思想や感情も、同じ言語で話し合い、迅速な理解が得られれば、争いごとを減らすことができると考えて、語学教育も新しいスタイルで実践していました。皆さんが今勉強している英語も、そんな丸山先生の教えを心に頑張ったら素晴らしいと思います。

丸山先生は1955年に80歳で退職され、町田市で96歳の天寿を全うされました。


丸山丈作先生(左)と室谷早先生(右)

トキワ松学園は102年の歴史がありますが、多くの先生・生徒の努力で発展してきました。創立記念日に因んで、室谷先生・丸山先生についてお話しをいたしました。先生方の思いを胸に、生徒の皆さんには日々学習活動に励んでもらいたいと思います。